戸隠・鬼無里


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加茂神社

北村 喜代松

鬼無里ふるさと資料館に展示された祭屋台と神楽の見事な彫刻。それはすべて北村喜代松(三代正信)が彫ったものです。
越後市振村(現青海町)の宮大工建部家に生まれた喜代松は、18歳頃から鬼無里を訪れ、諏訪神社の屋台、鬼無里神社屋台、加茂神社の神楽などの製作に加わりました。
宮大工と大工の大きな違いは、彫刻技術です。腕の良い宮大工は一流の彫刻師であり、建部家は彫刻を得意とし、才に恵まれた喜代松は生粋の彫刻師に鍛えられました。鬼無里神社屋台や三嶋神社屋台の籠彫り、生気を感じさせる龍・鳳凰などの彫り物がその技の冴えを物語ります。
喜代松は文久年間(1861〜4)長野村(現長野市)の北村ふさ(鬼無里生まれ)の婿となり、建部姓から北村姓となりましたが、建部家の世襲名正信(三代)はその後も名乗りました。
それから15年経て故郷から新築寺社の彫刻師として招かれた喜代松は、仕上げた作品が評判で新潟・富山から仕事の依頼を受けて長野に戻れず、妻と4人の子は翌年市振の喜代松のもとへ向かいました。

北村 四海

喜代松の長男直次郎は早くから彫刻を継ぐ決心をかため、母の反対を押し切って小学校を中退しました。仕事を学び腕を磨き、20歳の頃には父の代参で長野・富山・新潟の社寺の彫刻補作に出向いてます。
25歳の直次郎が鬼無里神社を訪れて彫った草刈童子が、東京彫工会主催彫刻競技会展で一等褒状を受け、同年四海の号で日本美術院協会展に出品した木彫神武天皇像も一等賞になり、新進木彫家として最高の船出をしますが、四海は木彫から大理石彫刻へ転身します。当時の日本に塑像技術を体得した師がおらず、四海は象牙彫刻家に学びながら、独学で大理石彫刻を試みました。その初作「少女像」が明治32年の日本美術院協会展二等賞となり、しかも念願であったフランス留学が、明治33年パリ万国博覧会視察の作家代表となることで実現します。四海は、翌年の帰国まで、ジョルジュ・バローのアトリエで学び、美術学校で解剖学の講義を熱心に聴講しました。
時あたかもフランスはアール・ヌーヴォーの真っ盛り。その芸術運動に四海の心が振るえたことは、帰国後の彫刻の流麗なフォルムと、清楚で美しく憂うような女性像から偲ばれます。それらはまた、警官の裸体像取締りを、芸術性の高さで抗いだ四海の反骨魂をもうかがわせます。
後に四海は、文部省美術展覧会審査員、帝国美術院展の彫刻部審査員を勤めました。

北村 正信

四海の姉の子虎井広吉は、祖父喜代松のもとで彫刻を学び、14歳の時、四海に呼ばれて上京、太平洋画学校に学びました。20歳で四海の養子となり、5代北村正信を襲名、22歳で文展初入賞した彼は、当初は逞しい男性像を発表し、後に女性像を製作します。彼の女性像は健康的な逞しさとおおらかさに満ち、芸術環境の成熟の中で正信がのびのびと腕を奮ったことが分かります。
彼は33歳の若さで帝展の審査員となり、後に日展評議員・参与を勤めました。

■長谷鉄男コレクション
喜代松の二男の息子で美術愛好家として知られた長谷鉄男の生前の意志と、遺族の好意で、祖母ふさの生まれ故郷であり祖父喜代松の祭屋台が飾られた鬼無里に、四海・正信の作品を初め、北村西望、新海竹太郎、綿引司郎らの彫刻80点が寄託され、北村三代の展示作品がさらに充実いたしました。

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